1896(明治29)年
日本赤十字社秋田支部で救護看護婦養成を開始
1914(大正3)年
日本赤十字社秋田支部病院救護看護婦養成所として発足
1946(昭和21)年
秋田赤十字病院看護婦養成所と改称
1950(昭和25)年
秋田赤十字高等看護学院と改称
1976(昭和51)年
秋田赤十字看護専門学校と改称
1996(平成8)年
秋田赤十字看護専門学校を発展させ、学校法人日本赤十字学園の設置する全国4番目の高等教育機関として、日本赤十字秋田短期大学 開学(看護学科80名・介護福祉学科50名)
1998(平成10)年
秋田赤十字看護専門学校閉校
2009(平成21)年
日本赤十字秋田短期大学看護学科を改組転換し、日本赤十字秋田看護大学開学(看護学部看護学科100名)
2011(平成23)年
日本赤十字秋田短期大学は看護学科学生の卒業に伴い、介護福祉学科の単科となる 日本赤十字秋田看護大学大学院 看護学研究科 看護学専攻修士課程(12名)開設
2013(平成25)年
日本赤十字秋田看護大学に認定看護師教育課程(認知症看護認定看護師コース)開講 (2019(令和元)年度末をもって閉講
2016(平成28)年
日本赤十字秋田看護大学大学院 看護学研究科 共同看護学専攻博士課程(2名)開設 日本赤十字秋田短期大学 介護福祉学科の入学定員を、50名から30名に縮減(届出)。
2018(平成30)年
日本赤十字秋田看護大学看護学部に養護教諭一種免許課程設置

本学は東北地方で唯一の赤十字高等教育機関です

本学の組織図

赤十字救護員記念像(救護看護婦像)

赤十字救護員記念像(救護看護婦像)
 明治以来の看護師養成の歴史を受け継ぐ本学の正面の植え込みには「赤十字救護員記念像」があり、秋田赤十字病院の方角を見まもっています。この像は、さきの日中戦争から太平洋戦争にかけて、戦時救護に動員された人々の功績をたたえ、不幸にも殉職された救護員の慰霊のために、西南戦争のさなか佐野常民らによって日本赤十字社が(当時は博愛社)設立されてから100年目にあたる昭和52年の記念事業のひとつとして、秋田市中通の旧秋田赤十字病院隣接地(現 エリアなかいち)に昭和53年に建立されたものを、平成8年の日本赤十字秋田短期大学開学に際して当地へ移設されたものです。 15年の長きにわたって戦争に従事した救護員は、日本赤十字社秋田県支部関係だけでも医師6人、看護婦425人、調剤員1人、書記13人、使丁15人の合わせて460人に達しますが、このうち看護婦21人、使丁1人の計22人が殉職、このほかに秋田県支部には所属していませんが、秋田支部病院の救護看護婦養成所を出た2人の看護婦殉職者もおり、大きな犠牲を払いました。 昭和52年10月、日本赤十字社秋田県支部を中心に、秋田赤十字病院・日本赤十字社看護師同方会秋田県支部の代表が集まって建設委員会が発足、救護看護婦の立像を建設することになりました。記念像の制作者には秋田県田沢湖畔に立つ「辰子像」の制作者である東京芸術大学の舟越保武教授が依頼されました。舟越教授は秋田にも足を運んで製作にあたり、優しくしかも凜々しい赤十字看護婦の像をつくりあげました。像はブロンズ、高さは195cmで、高さ85cmの台座(スウェーデン産インベラル・レッド)の上に建てられました。 (日本赤十字社秋田県支部百年史より)

一対の額

一対の額
右は大正3年に秋田市上中城町に開院した初代の秋田赤十字病院の時代から伝わる「ナイチンゲール像」、左は秋田赤十字看護専門学校卒業生により昭和18年に寄贈された「光明皇后像」。描かれた経緯は異なりますが、奇しくも両作品とも高橋萬年氏(1897~1956)の作です。学生が手本にする看護師像を象徴したものとして、以来「一対の額」として受け継がれています。 もっとくわしく 光明皇后・・・聖武天皇の皇后。大宝元年(701)藤原不比等の三女として誕生。天平元年(729)臣下の身分で初めて皇后となる。仏教に篤く帰依し、天平2年(730)、貧しい人や孤児を救うための救護施設「悲田院」、貧しい病人に薬を与え治療をした医療施設「施薬院」を建て、日本の看護・福祉の礎を拓いた存在としても知られる。